平成28年度岳陽同窓会進路講演会Part1
公開日:
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最終更新日:2017/02/16
お知らせ(新着情報), 同窓会活動, 田川高校関連の話題, 進路講演会 36回生進路講演会, 進路講演会Part1とPart2
5月28日に開催された、平成28年度岳陽同窓会進路講演会、
本日はPart1として、講演内容の詳細を主にご紹介します。
会場の田川高校80周年記念講堂に高校生のみなさんが集まり、講演会が始まります。
主催する岳陽同窓会当番期36回生、伊藤代表幹事からのごあいさつです。
後輩である在校生みなさんを前にして、少し緊張気味でしょうか。
今年度、田川高校の学校長に就任された、佐藤校長からのごあいさつです。
私たち36回生が高校生だった頃より生徒数が少ないとはいえ、全校生徒のみなさんが一堂に集まった様は壮観ですね。
続いて、岳陽同窓会の西村会長からのごあいさつです。
岳陽同窓会本部のみなさんです。
いよいよ開演です。
講師は、鈴木ナオミさんです。
イギリス・ロンドン在住のナオミさんは、イベントプロデューサー・歌手・女優・司会者として、イギリス、ヨーロッパでマルチタレントとして活動をされています。
田川市出身で、田川高校の卒業生です。
イギリスのメディアで、「イギリスで最も有名な日本人シンガー」と紹介され、
2015年3月には、日本人として初めてイギリス国会議事堂でコンサート(東日本大震災追悼コンサート)を開催されました。
現在もロンドンから度々被災地を訪問、精力的に支援活動を行っていらっしゃいます。
【音楽のチカラを信じて進む世界への挑戦】
~願うだけでは、夢は叶わない~
と題して、
第1部 世界への挑戦
第2部『音楽のチカラ』で復興を目指す 東日本大震災支援活動
第3部 継続は必ずモノを言う
第4部 演奏
4部構成の講演を行ってくださいます。
それでは、鈴木ナオミさんの講演を、ナオミさんのお話と写真でご紹介します。
皆さんおはようございます。
鈴木ナオミです。
イギリスから13時間飛行機に乗って、皆さんに会いに「田川に帰って」来ました。
私はイギリス、ロンドンやヨーロッパで、シンガー・マルチタレントとしてアーティスト活動をしています。
昨年、イギリスの国会議事堂で日本人として最初に演奏会を開いたということで、最近では、イギリスで最も有名な日本人歌手と、イギリスのメディアで報道して頂きました。
日本ではまだまだ私の名前は知られていませんが、これまで世界の中で戦ってきた私の波乱万丈人生を、 今日はこれから皆さんにお話しさせて頂く中で、世界への挑戦の意味や、音楽の役割、そして夢を叶えるにはどうしたらいいか?
などについてお伝えできたらと思います。
最後に演奏のコーナーもあります。
今日は東京と福岡からミュージシャンにお越し頂き、一緒に演奏しますのでそちらの方も楽しんで頂きたいと思います。
さて、皆さんの夢はなんですか?
何になりたいですか?
夢を聞かせて下さい。
絶対にこうなりたいという夢のある人?
そして夢を実現させるために毎日やっていることはありますか?
また、何をすれば夢に近づくことができると思いますか?
ただ毎日、夢を見続ければそれで夢が叶うと思いますか?
これまでそんな事を考えても、その答えが全く見当もつかなかった方へ、今日はこの講演会の後、少しでも何かが見えたり、感じてもらえたら嬉しく思います。
よろしくお願いいたします。
私の夢~私の音楽で世界中の人を幸せにすること
夢は?ときかれたら、
「音楽で世界中の人を幸せにしたい」
私は子供の頃からそう答えていました。
たぶん4歳くらいの時から、聞かれなくてもそう周りに言っていた記憶があります。
私は子供の頃からエレクトーンを習っていて、いろんな大会でも優勝し、将来は音楽の道に進むと決めていました。
高校時代は、文化祭や、体育祭になると目立ち、特に文化祭ではバンド演奏で盛り上がり、夏休みは学校で毎日バンドの練習の日々。
先生から「勉強はいっちょんせんで、とんぴんがー」と、いつも怒られ、成績もいい方ではありませんでした。
しかし、「私には音楽がある」という自信が常にありました。
田川高校学生時代にも、エレクトーンの九州大会で優勝し、校長先生に表彰して頂いたことがあったのですが、実は子供の頃、大けがをした左腕が高校2年の時に後遺症で上手く機能しなくなり、高校3年になる頃、ピアノやエレクトーンなど鍵盤を弾くと腕に痛みが出ていて、手術が必要となり3ヶ月以上入院生活をしてしまいました。
そしてそのことが原因で、パニック障害も起こすようになりました。
その結果、出席日数が足りず卒業も危ぶまれましたが、当時の担任の先生が、私の足りない科目の授業を多く受けさせてくれるなどの配慮をしてくださり、なんとか卒業でき、リハビリを必死で行い、東京の音大に行くことができました。
しかし、世の中甘くありません。
私のように地方大会で優勝した人達や真剣に音楽を学ぶために東京に出てきて勉強している人達と、左腕に障害を持っている私との力の差がだんだんと出はじめ、徐々に演奏家になる道を諦めかけ、ぐれそうになりました。
その時、担任の先生が「これからはピアノやエレクトーンを弾けるだけでは仕事はない。歌ったり、しゃべったりしながら演奏できるマルチタレントが必要になる。」と、私を特別クラスで、歌や踊り、アナウンサーとしてのプロのしゃべり方などを特訓してくれました。
厳しい先生は「やる気がないならやめてしまえ!あなたにはセンスはない」と、音程が悪い私を徹底的にしごき、特訓してくれました。
歌や言葉を発するのは自分の身体です。
演奏する楽器が自分の身体であることは、ピアノやエレクトーンのように他の楽器に頼るより難しいことでした。
だから、訓練が必要でした。
そうして学生時代を過ごしました。
泣く日も、自信をなくして何も手に付かなくなることもありました。
今思えば、私の後の音楽人生の基礎を作って下さった先生に、感謝の気持ちでいっぱいです。
ここで夢をかなえるキーポンイトその1です。
例え評価されていなくても、
自分が得意だと思う事に対して
いつも自信を持ち続ける。
自信を持ち続けるというのは、つまり、そのことを本気で楽しむと言うことです。
第1部 世界への挑戦
コマーシャルソングやアニメソングの主題歌、イベント司会などの仕事が沢山来るようになり、私の芸能活動が始まりました。
テレビやコマーシャルのナレーションやコマーシャルソングも手がけたり、モデルをやったり、売れっ子アーティストのバックコーラスもやるなど、芸能の仕事で出来ることは全て請け負いました。
できないことでも「できます」と言って、何でも“はったり”でやっていました。
でも心の中で、洋楽と比べ、日本の音楽がとても薄っぺらに制作されていることに違和感を感じていました。
違和感があっても「そういうものなんだ」と無理やり納得し、それよりも芸能界の仕事が出来ることを楽しんでいました。
けれどもイベントでは、自分の勉強の意味で、できるだけ洋楽のレパートリーを歌っていました。
伍代夏子さんという演歌歌手の前座で司会をしながら、場違いな洋楽を歌っていたある日、私はイギリスのプロデューサーからイギリスでデビューしないか?とスカウトされ、突如イギリスへと旅立つことになりました。
当時、今のように、きゃりーぱみゅぱみゅや、BABYMETALなど、海外で活動している日本人アーティストは誰一人おらず、プロデューサーは私を海外で活動する初の日本人アーティストとして育てようとしました。
私の世界への挑戦の始まりです。
しかし、後先を全く考えていない私の行動に、両親はひっくり返るほど驚いたし、好奇心だけで動く私も、実はこのまま外国に売られてしまい日本に戻ってこれないのではないかと密かに思ったほどです。
ところが、初めてロンドンに到着して飛行機から降りると、ドアの向こうにはイギリスの国営放送BBCのカメラが3台回り、取材班が来ていたのには驚きました。
にわかには信じ難かったのですが、世界への扉が突如表れ、私の前で急に開いたかのようでした。
しかし、当初は英語なんて全くしゃべれません。
「What is your name? ;あなたの名前はなんですか?」と聞かれ、「イエーイ」としか答えられない日々が1年以上続き、取材にも答えられないどころか、レコーディングでミュージシャンとの意志の疎通もまま成らない日々の中、日本人に対する偏見の眼差しと戦う毎日でした。
歌が上手い、踊りが上手い、それだけのアーティストは世界には掃いて捨てるほどいます。
私は自分が日本人であることの誇りを捨てずに、そのアイデンティティーをどうやって世界にアピールしていくか、考え続けました。
英語がわからなくてもレコーディングはなるべく通訳を入れずに、身振り手振りで自分の意志を伝え続けました。
自分の意志やビジョンをどうにか伝えることできれば、心も通わすことができます。
大事なことは、自分が形にしようとすることについて、自分の意見をしっかり持つことです。
私にとって救いだったのは、イギリスのプロデューサーは、例えどんなに有名な方でも上から目線ではなく常に同じ目線で、私に「ナオミはどうしたいの」と、意見を聞いてくれるところでした。
しかし、色々な面で自由にさせてもらえる分、自分の中で貫き通せるビジョンやコンセプトができていないと、この世界では生きていけません。
ただワガママを言うだけでも、相手の言いなりに動くだけでもない。
自分自身で考えて行動しなければならない分、「自分は本当に何がしたいのか」ということと向き合う必要があります。
私は、ここでビジョン作りの基本を叩き込まれました。
大変いい経験でした。
英語がうまく伝わらないときは、感謝の気持ちを精一杯の笑顔で表し、心で会話をしました。
そうして多くのミュージシャンの助けを得て、イギリスのダンスチャート12位になったのです。
タワーレコードのようなCDショップではサイン会が開かれ、CDショップのお勧めのコーナーに置かれていました。
イギリスのチャート12位になったニュースは日本のレコード会社にも伝わり、ある大手のレコード会社がその年の一押しアーティストとして、予算を1億円出すと言ってきました。
日本でのコマーシャルソングも決まり、プロモーションビデオも完成し、日本への凱旋の道が決まりかけたとき、、、
間に入ったプロデューサーが、その1億円を持ち逃げするという事件が発生。
私の日本への凱旋ストーリーは、あっけなく閉ざされました。
ドラマチックすぎます。
路頭に迷った私は、このまま日本に帰国することも悔しかったので、歌以外の道も探すべく、女優になる養成コースに通いながら、まずは英語を必死で勉強しました。
そして通訳ができるレベルになった頃、日本のフジテレビの伝手で、日本の売れっこアーティスト達がロンドンでレコーディングやライブをする時の、通訳や現地マネージャーとして雇われました。
ベテラン通訳ほど正しい英語をしゃべれなくても、これまで自分のレコーディング活動で習得した、音楽を通じたミュージシャンやプロデューサーとのコミュニケーションがここで多いに役に立ちました。
これまでの苦労と経験の出番です!
何より自分自身がアーティストとしてどうしたいか、こういう場合はイギリスのミュージシャンにどのように伝えたらうまくいくか、その方法を考え続けてきたことがここで役に立ったことは、更に自分の自信に繋がりました。
ここで夢を叶えるキーポイント2です。
とことん悩み
納得がいくまで
しっかり考える。
私の活動を知る日本のプロダクションの人達からの、「ロンドンに行けば、ミュージシャンの気持ちがわかる凄いコーディネーターがいる」というニュースは、日本の音楽業界でたちまち噂となり、宇多田ヒカルなど当時売れっ子だったアーティストから続々と依頼が舞い込みました。
その時ビザが切れ、帰国命令が出たものの、日本の制作会社やプロダクションも支援してくれ、それらの会社のロンドン支店として日本からのアーティストの活動をコーディネートする会社を設立して、永住権を勝ち取り、更に日本からの仕事依頼は増えました。
しかし元々シンガーとして活動したかったのに、他のシンガーの裏方をする事に少しずつ嫉妬心が湧いてきました。
ある日、ある日本人アーティストのレコーディングのマスターテープが紛失するという事件が起りました。
そのCDは後にチャート1位になり、その年のベストアルバムにも選ばれたCDでした。
無くなったとき、実は心の中で、「そのまま出てこなければ良い。」と思ってしまった自分がいました。
結局そのマスターテープは別のエンジニアの部屋から発見され、事無きを得ましたが、一瞬でもそう思ってしまった自分を心から恥じました。
情けなかった。
コーディネーター、経営者と してプロ意識が持てない自分を心底嫌いました。
そこから決めました。
「今までの自分を捨てよう。自分はもうステージに立つ事を望むまい」
そう決めました。
トップアーティス トの裏方のプロとして生きて行こう。
その時から私は、アーティストの部品になることに集中しました。
誰にも負けないプロフェッショナルな仕事を提供しました。
そしてロンドンで関わったアーティストは皆、日本でスターダムへと上り詰めて行きました。
コーディネーターとしての経験は、チームワークの大切さを学ばせてくれた。
歌手として活躍する人たちの裏では、たくさんのスタッフが、プロ ジェクトを成功させるために動いている。
その一人一人が力を合わせて気持ちを一つにしなければ、そのプロジェクトは絶対に上手くいかないのだということ を、自分自身の経験から強く感じました。
「一人よがりじゃ、何もできない。」
自分のコンセプトを伝えるベストな方法は、考えに賛同してくれる人を巻き込むことだと思うんです。
だけどやはり、歌う事を止められなかった私は細々と、「ナオミ劇場」なる小さなショーを開催して、ロンドン在住日本人に楽しんで頂きました。
日本を離れ、イギリスに何十年も住み続け、日本には帰るところもなく、日本の歌を懐かしがっている人達のために唄いました。
また、日本を知らないイギリスの人達に、日本の文化を少しでも知ってもらえたらという気持ちもありました。
もうそれで良かったのです。
でも趣味とは言え、歌も芝居も時間が許す限り、自分なりに真剣に取り組みました。
ここで夢を叶えるキーポイント3
挫折は必要。
挫折の中から見えることがあります。
挫折とは諦めることではなく
スタート地点に戻ることなのです。
私の本当の意味でのリベンジは、ここから始まります。
ある日、ハリウッド映画のオーディションの話がきました。
役どころは、主人公の日本人妻役でした。
オーディションに行くと、モデルような人ばかりで、背も小さく、美人でもない私には、とても場違いなオーディションに思え、皆が真剣に審査員からの質問に答える中、私はコントのように笑いをとって、さっさとオーディション会場を後にしたのですが、その正直さが良かったと、なんとオーディションに受かってしまいました。
後にその映画はイギリスの興行記録を塗り替え、10年以上も1位になるほどの人気映画となりました。
そんな映画に出演させてもらったのです。
また、日本で言うところの、朝の連続テレビ小説や大河ドラマのような、話題性の高いイギリスのドラマやCMにも出演し、イギリス芸能界でのネットワークが広がっていきました。
日本のアーティストの、イギリスでの活動をコーディネートする会社も順調で、日本からやってくるアーティストのお世話だけでなく、日本のテレビ番組の海外ロケ、100万人以上を動員した日本で開催の展覧会のオーガナイズ、ロンドンオリンピックでの日本の報道陣、テレビ局のお世話の仕事も請け負いました。
皆さんご存知の、松岡修造さんのテレビコマーシャルの制作や、また、皆さんは世代的に知らないかもしれませんが、ご両親世代だと世界中の誰もが知っているカーペンターズというグループの、リチャード・カーペンターの出演番組もお手伝いしたり、グラミー賞にご一緒することができ、少しずつですが日本と世界の橋渡しを担うような仕事に恵まれていきました。
ここで一つ学んだ大切な事は、全てに一生懸命にそして誠実に尽くしていれば、質の良い仲間が現れ、その仲間がまた質の良い仲間を運んできてくれるという事でした。
ポジティブの連鎖です。
間違いがあったり叱られたりすることも多々ありましたが、謙虚であり、反省をし、与えられた使命に心からの感謝を忘れないことも大切でした。
ここで夢を叶えるキーポイント4
一生懸命 誠実に取り組む。
謙虚さを持って
常に感謝を忘れず。
8年前、ここでもう一つ転機が訪れます。
今では7万人の観客を動員するイギリス最大の日本のお祭り、ジャパン祭りの司会者に抜擢されました。
今年で8年目を迎えますが、今では日本大使館の方々と共に運営委員会の一員となり、また主催する英国日本人会の理事にも任命して頂きました。
この8年間で感じた使命は、日本という国を背負って、日本の文化や伝統を世界に広げていきたいということでした。
昨年は、世界中に住む日本人に「日本を世界にアピールしたい言葉」を募集、それを繋いでニッポンの応援歌『ジャパン祭りソング』を制作し、国営放送のBBCで取材して頂きました。
ここで夢を叶えるキーポイント5です。
自分の生き方役割にビジョンを持つ。
私は自分の生き方として、日本の文化を世界に伝える架け橋の役目を担う人でありたいと、強く願うようになりました。
そのことを訓練できた8年でした。
毎年大きなステージに立たせて頂くことで、イギリスのメディアにも私の名前を知って頂き、イギリスの一般の人達からも沢山支援して頂けるようになりました。
私の存在の意味、役割をビジョン化し、「音楽を通じて世界中の人を幸せにしたい」という子供の頃からの夢を、決して揺るがない信念に変えて持ち続けた結果、 日本のレーべルやプロダクションの力を借りずに、自分の力で自分のレコード会社を設立することができました。
そして世界に向けて自分の音楽を発信することができたのです。
AJ Unityというユニットを作り、言葉の壁を乗り越え、世界中の人に聞いてもらえるような音楽作りをめざしました。
リリース後すぐに、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国で話題になりました。
そのニュースを聞いたアメリカのプロデューサーから突然、『ナオミの歌をアメリカでプロデュースしたい』とメールで連絡が入りました。
その頃、体調が悪く返信できていなかったところ、驚いたことに、数ヶ月後そのプロデューサーがアメリカからロンドンに会いにきてくれ ました。
『ダメモト』・・この時ほど、この言葉がぴったり来た事はありません。
任せる事にしました。
翌年、アメリカでリリースの1ヶ月後全米チャート100位、そして、レディーガガ、ビヨンセをぐんぐん抜いて、全米ラジオチャート14位になっていきました。
全世界1400カ所のラジオ局の投票ではなんと3週間1位という栄光を頂きました。
夢を叶えるキーポイント6
夢は諦めなければ叶うのではなく、
諦めらることなどあり得ない程の揺るぎのない信念を持って貫き、懸命に誠実に向き合っていれば、夢の方から自分の人生に寄り添ってくれるのです。
最初描いた夢とは違う形になったとしても、信念を持って懸命に誠実に取り組んでさえいれば、自分にとっていい形で悔いのない輝いた時間を過ごすことができるのです。
このように全てが順風満帆に進んでいた5年前、また波乱万丈な出来事が起こります。
誠実であるためには、人の痛みを分かる人になることが大事だと肝に銘じた運命の出来事でした。
それは突然にやってきました。
ホラー映画の特撮かと思うような、肺からの大量出血です。
結核を疑われ隔離され、口からゴボゴボと出るその血液の量は尋常ではありませんでした。
検査の結果、ガンや結核ではありませんでしたが、肺に疾患が見つかり、その後現在に至るまでも、ちょっと免疫が落ちると出血と肺炎を繰り返すような爆弾を抱えてしまったのです。
全米チャートで14位になった、ユニットAJ Unityのデビューアルバムが、イギリスの新聞や雑誌で話題になったのはこの頃でした。
そして遂に、自力で起きていられないくらいの状態になりました。
病院に担ぎ込まれ、医師に緊張が走るほどの意識レベルの低下の中、あの忌まわしい、3.11東日本大震災が起ったのです。
そして、見ず知らずの被災者の方から運命の1通のメッセージが届きました。
第2部 音楽の力を信じて復興を目差す
『ナオミさんの歌で被災地を救ってください』
3.11の直後、突然見ず知らずの人からツイッターで送られたメッセージには、そう書かれていました。
その時私は、肺からの大出血に加え、白血球の異常減少で免疫不全と肝機能障害で瀕死の状態でした。
私に何ができるのか。
「そうだ、死ぬ前にもう一度、日本語でCDを残したい。それが被災地の人たちを元気付けられるのなら。」
その決心から『生きること』への執着が蘇りました。
命をつなぎながら、被災者の皆さんの思いを作文にしてもらい、それを歌詞にしました。
必死で楽器を、歌を、レコーディングし、ロンドンの仲間から書いてもらった寄せ書きと一緒に完成したCDを届けたときには、病気は回復していました。
音楽の力は生命を蘇らせる事ができる。
私は生かされたのです。
そう確信できました。
病気はしたくないけれども、
病気を通じ人の痛みを分かる人間には、底力もついて、強くなることができる。
そう信じています。
「私の音楽で被災地の人達を励ましたい」
東日本大震災から5年間、「音楽で生きる力」をテーマに、これまでロンドンから50カ所の被災地の施設を慰問してきました。
コンサートやCDセールスで得た利益は、被災地の復興の為に使って頂きました。
田川市の明屋書店さんにもご協力を頂き、田川市の皆さんにもCDを購入頂き御支援頂きました。
余談ですが、このとき、
スマップや嵐を押しのけて、この写真のように大々的に販売して頂き、地元の応援は本当に有り難いなぁと思いました。
仮設住宅や、児童施設を何度も訪問しました。
ここに写真がありますが、義援金は被災者の皆さんや被災地の子供たちを音楽で元気づけるための楽器購入や、イベント開催費用に使って頂きました。
仮設住宅などを慰問した際、最初は下を向いて元気の無かった皆さんが、一緒に歌を歌うことで目がキラキラと輝き出し、元気になってくれるのが私の目に映ったとき、その元気を貰って私自身も元気になっていきました。
また、被災地の子供たちの支援にも協力させて頂きました。
小さな子供さんたちは震災を覚えておらず、生まれていないお子さんもいましたが、子供の支援はその親御さんの支援に繋がります。
音楽で皆を笑顔にしたいという一心でした。
皆さんの笑顔を見て、子供の頃から言い続けていた「私の音楽で世界中の人を幸せにしたい」に、少しだけ近づいた気がしました。
実は昨日も岩手県、宮城県の子供たちに逢いに行ってきました。
子供の笑顔は未来の宝です。
地震と津波で全てを無くしてしまい心が壊れそうな人達に寄り添って歌を歌いたいとはじめた「音楽を通じての復興支援」でしたが、
祖国日本から遠く離れた私の住むイギリスという国では、私の他にも日本の事を思っている人達が沢山います。
その人達は日本の為に何も出来ない自分を悔しがっています。
その人達の思いや声を伝えたい。
日本とイギリスの掛け橋になりたい。
その人達の分まで頑張りたい。と強く思いました。
その思いが遂にイギリスの国会に通じ、日英友好の架け橋としての役目を頂きました。
これまでの私の活動を評価して下さったイギリス国会の議員連盟からの依頼で、昨年3月、東日本大震災追悼コンサートとして、イギリス国会議事堂にて日本人初のコンサートを開催することができました。
私が日本を飛び出したとき心に決めた、
「音楽を通じた日本と世界の架け橋の役目をしたい」
その思いが現実となったのです。
それから数ヶ月後に帰国した際は、東北6県のNHKのワイドショーにも出演し、イギリスの国会議員やイギリス市民の皆さんや在英日本人の皆さんが、日本を支援していることを報告する事ができました。
『架け橋』 この役目を有り難く全うさせて頂きました。
更に今年3月には、これまでのイギリスからの『忘れない』想いに対し、被災地のみなさんからの『ありがとう』を繋ぐ架け橋になろうと、ロンドンの由緒あるコンサートホールで満員御礼の中、コンサートを開催することができました。
被災地から『ありがとう』のメッセージが沢山届きました。
第3部 継続は必ずモノを言う
非難される事もあります。
身内ですら理解できないこともあります。
人は私に、「凄いね」「偉いね」と言いますが、私は凄いことをして、上から目線で「歌で励ましてあげる」のではなく、
私の願いは、私の声が世の中のお役に立つこと。
それだけなのです。
私にとって生きるという事はそういうことなのです。
これは、子供の頃から言い続けている「音楽で世界中の人を幸せにしたい」
その夢の実現なのです。
実は、昨日まで東北を回っていましたが、なんと福島県知事を表敬訪問することができ、これまでの活動をねぎらって頂き、またこれから東北とイギリスを結ぶ架け橋になってもらいたいと言って頂けました。
地元の新聞やNHKニュースでも大きく取り上げられました。
夢 『私の音楽で世界中を幸せにしたい』
その夢を持つことで
どういう世界が見えるのか
どういう人生を歩きたいのか
明確なビジョンを持ち続け行動することで
夢が自然と形になってくる
音楽の力を信じて
そして今日まで生きてこられました。
歌を歌わせてくれる皆さんに感謝しています。
生かされている事に感謝しています。
そして明日へ明日へと命を繋ぎながら行けるところまで行ってみたい。
最後に夢は「紅白歌合戦」!集大成です。
Great Quotations
それではここで、
私が苦しいときに支えてくれた偉人の名言を英語でご紹介したいと思います。
Let him who would move the world, first move himself.
世界を動かそうと思ったら、
まず自分自身を動かせ。
~ソクラテス
(古代ギリシャの哲学者/紀元前469~399)
I will prepare and some day my chance will come
準備しておこう
チャンスはいつか訪れるものだ。
~エイブラハム・リンカーン
(米国第16代大統領/1809~1865)
Love the life you live. Live the life you love.
自分の生きる人生を愛せ。
自分の愛する人生を生きろ。
~ボブ・マーリー
(ジャマイカのレゲエミュージシャン / 1945~1981)
苦しんだ時間は自分を裏切らない。
勉強に励む苦しさは今だけであり、勉強しなかった苦しさは一生続く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第4部の演奏、ナオミさんの素晴らしいステージの様子は、次回Part2でご紹介する予定です。
みなさん、どうぞお楽しみに。
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